「小笠原貞慶と松本城」

「松本城は深志(ふかし)城と呼ばれ、中世には小笠原氏の一支城であった。」(写真02より)
「小笠原貞慶と松本城」(写真03)の解説文から貞慶の深志城奪回と 松本城下町整備の経緯を要約します。

写真01_松本城
写真01_松本城

写真02_松本城と城下町
写真02_松本城と城下町

写真03_小笠原貞慶と松本城
写真03_小笠原貞慶と松本城(松本市立博物館展示)

武田信玄による深志城の改修

「小笠原長時の敗北により府中を手にした武田信玄(晴信)は、 深志城を安曇・筑摩郡の支配拠点とし、防御性を高めるための 馬出しと呼ばれる出入り口の改修を行います。」

小笠原貞慶による深志城の奪回と「松本」への改名

「天正十年(一五八二)の武田氏の滅亡、本能寺の変による 織田信長の滅亡により信濃の地は再び混乱します。
越後の上杉氏は信長のもとで深志城に入っていた木曽義昌 を追い出し、小笠原貞種を入城させます。
一方、徳川家康のもとに身をよせていた小笠原貞慶も府中の回復をねらい、 貞種に失望した小笠原譜代衆の求めもあって府中に侵攻し、 三十三年ぶりに父祖の地を回復、深志城を大幅に拡張整備して 深志を「松本」と改名します。」

貞慶による支配の安定と城下町の整備

「貞慶は深志城奪回後も数年間は対抗勢力の一掃に努め、民心安定の ため寺社への寄進や安堵をおこないます。
安曇・筑摩郡の支配が安定すると、貞慶は城下町の整備に乗り出し、 道路整備や町割りをおこないます。
城内への武士の集住、城下町への商人や職人の集住、寺社の配置換えを行い、 貞慶の時代に松本城下町の原型が出来上がりました。」

徳川家康との縁戚関係

「貞慶は息子秀政と徳川家康との間に縁戚関係を結び、徳川の譜代となります。」

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