小笠原秀政・忠脩父子墓所

大坂夏の陣に参加し討死した小笠原秀政・忠脩父子の墓所を訪ねます。

写真01_龍雲山廣澤寺
写真01_龍雲山廣澤寺山門
小笠原秀政・忠脩父子の墓所は松本市里山辺にある曹洞宗の寺院「龍雲山廣澤寺」にあります。

写真02_廣澤寺本堂
写真02_廣澤寺本堂
山門をくぐると本堂があります。

写真03_秀政・忠脩父子墓所への案内板
写真03_秀政・忠脩父子墓所への案内板
本堂の裏手に案内板があり、「松本市特別史跡 松本城主 大坂夏の陣にて戦死 小笠原秀政・忠脩父子墓所 御霊屋へここより約二百米登る」と書かれています。

写真04_墓所への階段
写真04_墓所への階段
約二百米登ると墓所への階段があります。

写真05_秀政・忠脩父子墓所
写真05_秀政・忠脩父子墓所
階段を上るとようやく墓所にたどりつきます。

写真06_秀政・忠脩父子墓石
写真06_秀政・忠脩父子墓石
向かって右が秀政、左が忠脩の墓石です。墓石の裏側に「秀政」を示す文字は見えますが、「忠脩」の文字ははっきりとは見えません。

写真07_龍吟臺
写真07_龍吟臺
霊屋には「龍吟臺」と書かれています。

写真08_燈籠下のカエル
写真08_灯篭下のカエル
灯篭の土台の石にカエルが座っていました。

大坂夏の陣での秀政・忠脩父子の討死とその後の小笠原

写真09_小笠原秀政と嫡男忠脩(ただなか)の討死
写真09_小笠原秀忠と嫡男忠脩(ただなが)の討死
小笠原秀政は当時松本城8万石の城主で、嫡男忠脩と二男忠政(忠真)と共に出陣、慶長20年(1615)5月6日軍艦の命を守り木村重成隊との戦闘に参加しなかったところ、家康の激しい怒りを買いました。 そのため翌7日の決戦では討死覚悟で先陣に討って出て、激闘の末嫡男忠脩とともに戦死しました。」(大阪城天守閣の展示パネル説明より)
秀政・忠脩父子が戦死し、その功により二男忠真が播磨明石十万石を賜り、後に豊前小倉十五万石の加増を受けました。
長男忠脩には戦死の直前に生まれた幼児長次がいました。叔父忠真に育てられ、寛永三年(1626)播磨竜野六万石を賜り、寛永九年に加増され豊前中津八万石に移りました。

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