松本城の小笠原牡丹
「天文十九年(1550年)七月、甲斐の武田信玄に攻められた
小笠原長時は、林城館にあった純白の牡丹が敵兵に踏み荒らされる
ことを憂えて、これを里山辺の兎川寺(とせんじ)に託して去った。
その後同所の久根下家は、この牡丹を守り、昭和三十二年十一月と
平成十八年十月にその株を松本城へ移した。」(松本城案内板より)
写真01_松本城
写真02_小笠原牡丹由来
写真03_松本城の小笠原牡丹
写真04_松本城の小笠原牡丹
兎川寺の小笠原牡丹
兎川寺の小笠原牡丹です。こちらの牡丹が松本城に株分けされたということです。
写真05_兎川寺
写真06_兎川寺の小笠原牡丹
写真07_兎川寺の小笠原牡丹
小笠原長時の流浪と三男の貞慶の復帰
長時は、塩尻峠の戦で信玄に大敗し、本城の林城を失い三男の貞慶(さだよし)とともに信濃府中を没落、信濃守護の
地位を失います。越後の上杉謙信を頼り、謙信の死後は会津の芦名盛氏に頼りますが、天正十一年(1583年)
会津若松で家臣に殺されたといいます。
一方、三男の貞慶は、流浪の生活を続け入京して信長を頼り、その支援を受け再び信濃に出撃します。
天正十年(1582年)三月、武田氏が滅亡、同年六月、本能寺の変で信長が殺されます。
貞慶は、単独で上杉景勝や木曽義昌と交戦して勝利し一度失った府中を回復し松本城主に返り咲きました。
在地の旧臣の根強い支持があったと思われます。