大坂夏の陣の小笠原秀政
大阪城天守閣収蔵の最高傑作「大坂夏の陣図屏風(重要文化財)」に大阪夏の陣に参加し討死した小笠原秀政が描かれています。
写真01_大坂夏の陣図屏風(右隻)(パネル)
左端に大阪城、中央に豊臣方の真田幸村隊(赤備え)と徳川方の先鋒の松平忠直隊と小笠原秀政隊(三階菱)が見られます。徳川家康、徳川秀忠の本陣は右手後方にあります。
写真02_松平忠直隊と小笠原秀政隊
真田幸村隊と戦う松平忠直隊と小笠原秀政隊が描かれています。
写真03_小笠原秀政隊
三階菱の小笠原秀政隊が描かれています。
写真04_小笠原秀政隊(ディスプレイ)
写真05_屏風に描かれた武将たち
筑前福岡藩主黒田家に伝来する通称「黒田屏風」には、5071人の人物と馬348匹、幟1387本、槍974本、弓119張が描かれ、武将21人が特定できます。
ディスプレイには武将21人が順次表示されます。
写真06_徳川家康
写真07_徳川秀忠
写真08_小笠原秀政
写真09_小笠原秀忠と嫡男忠脩(ただなか)の討死
小笠原秀政は当時松本城8万石の城主で、嫡男忠脩と二男忠政(忠真)と共に出陣、慶長20年(1615)5月6日軍艦の命を守り木村重成隊との戦闘に参加しなかったところ、家康の激しい怒りを買いました。
そのため翌7日の決戦では討死覚悟で先陣に討って出て、激闘の末嫡男忠脩とともに戦死しました。(パネル説明より)
大坂夏の陣の後の小笠原
秀政・忠脩父子が戦死し、その功により二男忠真が播磨明石十万石を賜り、後に豊前小倉十五万石の加増を受けました。 長男忠脩には戦死の直前に生まれた幼児長次がいました。叔父忠真に育てられ、寛永三年(1626)播磨竜野六万石を賜り、寛永九年に加増され豊前中津八万石に移りました。